神崎組が姫路城の保存修理に初めて携わった時期は、大正時代に溯ります。当時の姫路城は、明治の大修理によって修繕が施されておりましたが、西の丸はその修理から漏れていました。そこで、当時の姫路市長から誓願を受けた陸軍省は、西の丸の修理を決定します。 さらに、二の丸にある「ロ」櫓と「い」「ろ」「は」の三門、土塀も西の丸修復工事と併せて修復することが決定し、神崎組が同年11月、姫路市から3,971円で請け負い、大正9年3月竣工させております。 |
大正15年 昭和3年 昭和6年 |
昭和9年6月に襲った豪雨により西の丸の一部櫓が崩壊します。これが機運となり昭和の大修理が計画されていきます。しかし、支那事変が勃発、戦局は悪化し、戦線は大陸から太平洋、遂に本土全域へと拡大します。姫路市も例外ではなく、修理事業は中止を余儀なくされました。 |
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神崎組は、昭和26年より数々の石垣の保存工事を担当します。 ◎いノ門東方土塀下石垣 |
昭和26年 |
◎リの一渡櫓チの櫓下石垣 |
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◎帯の櫓、帯郭櫓下石垣
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戦時中、姫路城を中心に陸軍歩兵連隊、陸軍兵器支廠、陸軍病院など陸軍諸施設が配置されておりましたが、敗戦と同時に解散、諸機関は廃止され日本国軍の姿は消えていきます。これら用地は、平和的、文化的施設が整備されるようになり、野球場や市立図書館、動物園などが建設されました。 | 昭和31年 |
昭和34年、大天守を支える基礎を鉄筋コンクリート製に置き換える工事を担当しました。 |
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この基礎に新しく据えられる心柱は、神崎組本社の前も通過し、社員一同これを見守ったのでした。 | 昭和39年 |
姫路市を広く紹介し更なる発展を祈念して昭和41年に開催された姫路大博覧会、これは姫路城昭和の大修理事業の完成を記念しての挙行でもありました。市内3箇所において63日間にわたる開催期間中に約170万人の来場者を記録しております。 |
昭和41年 昭和56年 |
特別史跡に指定される姫路城跡内に、国内外の城郭の総合的な調査研究を目的とする城郭研究室に図書館を併せ持つ複合施設があります。この施設は、戦時中、陸軍強化隊が置かれた場所で、その後拘置所として利用された場所です。 |
平成元年 平成5年 |
埋門、北勢隠門、喜斎門、京口門、三国堀、旧太鼓櫓など多数の石垣の修理を担当しました。 |
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昭和の大改修から45年が経つ平成21年から開始された姫路城大天守保存修理工事に共同企業体として参画しました。
配属が決まり、まず姫路城について勉強することから始めました。瓦や柱の名称など専門用語が多く、歴史含めて全て理解しておかないと、職人さんに作業指示することもできないし、大恥を掻いてしまう。私たちの仕事は、全ての職人さんに最高の仕事を安全で効率よくして頂く環境を作ることだと考えています。瓦や壁に塗られた漆喰など職人さんの技を見て頂けたらと思います。
参考文献
- 橋本政次(1952) 「姫路城史 下巻」 姫路城史刊行會
- 文化財保護委員会(1965) 「姫路城保存修理工事報告書Ⅲ」 文化財保護委員会
- 姫路大博覧会協会記念誌編集委員会編(1967) 「'66姫路大博覧会誌」 姫路大博覧会協会